木刈の男性殺害:傷害致死などで3人少年院送致

鎌ケ谷の男性殺害:傷害致死などで3人、少年院送致 /千葉

 鎌ケ谷市の山林で6月、印西市のパート従業員、針江義紀さん(33)が暴行されて死亡し、中高生を含む4人が逮捕された事件で、千葉家裁松戸支部は20日、主犯格の少年(15)を傷害致死の非行内容で初等少年院に送致する保護処分を決定した。また、共犯の少年(14)を同非行内容で、別の少年(15)を保護責任者遺棄の非行内容で、それぞれ初等少年院に送致する保護処分を決めた。

 主犯格の少年について、渡部佳寿子裁判官は「暴行様態は執拗(しつよう)かつ悪質。被害者を呼び出す計画を入念に立て、自ら危険な暴行を加えた」と指摘、相当長期間の矯正教育が必要と判断した。

 今回送致された少年たちと針江さんに暴行を加えたとして殺人容疑で逮捕された松戸市六実2、無職、加藤泰彌(やすひろ)被告(20)は、先月28日に傷害致死罪で千葉地裁に起訴されている。【中西啓介】

引用元: 鎌ケ谷の男性殺害:傷害致死などで3人、少年院送致 /千葉 – 毎日jp(毎日新聞).

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牧の原に少年院があった?印旛少年院跡

1969年から始まった千葉ニュータウン計画のさらに昔、
現在の西の原小学校辺りに少年院が存在していたそうです。
その名は「印旛少年院

千葉県印西市西の原2丁目7

調べてみると戦時中「印旛地方航空機乗員養成所」なる施設があり、その建物がそのまま少年院として利用されました。

  • 1945年7月には、養成所の生徒舎が数機の米軍機に銃撃され、7人が死亡したと伝えられています。
  • 1954年(昭和29)8月26日(木)にはこの印旛特別少年院から76人が脱走するという事件が起きました。
  • 当時流行した年少小唄(放送禁止歌)に「焼きの印旛か八街か」と歌い継がれました。
  • 1976年に業務停止。1983年に千葉ニュータウン開発公団に土地財産払い下げ。
  • 過去の住所は「千葉県印旛郡船穂村」となります。

1947年の米軍撮影航空写真の印旛少年院。

現在の地図との合成

現在の地図と重ねてみると、ちょうど西の原小学校あたりにあったと確認できます。

印旛少年院跡

現地へ見に行きましたが、わずかに当時のあぜ道が残っている程度で跡形もありませんでした。

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住宅地を造成中でした。印旛少年院の時代からあるシイの木は現存していますが、「シイの木を活かした公園」に造成されるため立ち入りは禁止されていました。航空学校時の石碑もあるらしいのですが確認できず。残念。

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枝を大きく広げて静かにたたずむシイの木。太平洋戦争からいろんな光景を見てきたのでしょう。威厳を感じます。

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現在の西の原小学校。もちろん航空学校や少年院の面影は全くありません。

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印西にも歴史あり。先人たちが今の千葉ニュータウンを見たらどんな思いを抱くのでしょうか。

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