1969年から始まった千葉ニュータウン計画のさらに昔、
現在の西の原小学校辺りに少年院が存在していたそうです。
その名は「印旛少年院」
調べてみると戦時中「印旛地方航空機乗員養成所」なる施設があり、その建物がそのまま少年院として利用されました。
- 1945年7月には、養成所の生徒舎が数機の米軍機に銃撃され、7人が死亡したと伝えられています。
- 1954年(昭和29)8月26日(木)にはこの印旛特別少年院から76人が脱走するという事件が起きました。
- 当時流行した年少小唄(放送禁止歌)に「焼きの印旛か八街か」と歌い継がれました。
- 1976年に業務停止。1983年に千葉ニュータウン開発公団に土地財産払い下げ。
- 過去の住所は「千葉県印旛郡船穂村」となります。
1947年の米軍撮影航空写真の印旛少年院。
現在の地図との合成
現在の地図と重ねてみると、ちょうど西の原小学校あたりにあったと確認できます。
印旛少年院跡
現地へ見に行きましたが、わずかに当時のあぜ道が残っている程度で跡形もありませんでした。
住宅地を造成中でした。印旛少年院の時代からあるシイの木は現存していますが、「シイの木を活かした公園」に造成されるため立ち入りは禁止されていました。航空学校時の石碑もあるらしいのですが確認できず。残念。
枝を大きく広げて静かにたたずむシイの木。太平洋戦争からいろんな光景を見てきたのでしょう。威厳を感じます。
現在の西の原小学校。もちろん航空学校や少年院の面影は全くありません。
印西にも歴史あり。先人たちが今の千葉ニュータウンを見たらどんな思いを抱くのでしょうか。
今から48年前位に千葉県印旛郡印西にルンビニホーム保護施設ありましたが、記憶が薄れています。お寺が敷地にありましたが、ネットで検索してみてもたどりつけませんでした。過去のことですが、振り返りたいです
目にとまっていただけば嬉しく思います。
私も分かりかねますので、ツイッターで情報を募集しましたが、有力な情報は集まりませんでした。
お力になれず申し訳ありません。
初めまして!
印旛郡印西町時代から、この地に住んでる母の話ですが
印旛少年院から「脱走者がでて怖い思いした」と聞きました。
夜間にそっと逃げ出したようで
翌日に地域は大騒ぎになったそうです。
当時は家の戸締りもせず就寝してる家も
多かったようですが、この事件の時は
昼間から戸締りし、外には不用意に出ないように
注意されたようです。 その後
どのように発見(確保)されたかまでは
わからないですが、70代になる
母の記憶に今もしっかりあるそうです。
1962年頃私は5歳で、まさにこの印旛少年院の敷地の中に住んでいました。父親が少年院の教官だったのです。現在の地図・写真からは想像もできませんが、草深い農村地帯で、兄が通っていた小学校も「草深(そうふけ)小学校」という名称でした。兄が遊んでいる時に誤って肥溜めに落ちたり、自転車に乗り始めた私が、畑の脇にあった里芋で滑って転んで怪我をしたりと、大変な所でした。店で買い物するにも、当時の私には「気が遠くなる」ほど歩いて、成田線の木下(きおろし)まで行った記憶があります。機会があれば訪ねてみたいのですが、多分面影も見いだせないのでしょうね。
貴重なご意見ありがとうございます!
印西にも歴史ありですね。お話から昔の情景が思い浮かびます。
ご覧のように現在は面影がありませんが、印西の歴史を知っていると感慨深いものがありますね。草深小学校は2003年に分割統合されてしまったそうです。
木下まで子供の足だと相当きついですね。しかもまだ未舗装だったはず。
ぜひまた千葉ニュータウンにお越しください!
印旛少年院は 最強の少年院で他所の少年院に入所している人に一目置かれていたんですよ この少年院を出ただけで悪の世界では恐れられたんですね ここに飛行場があったんですけど 今でも戦闘機を格納する 掩蔽壕が残っているでしょうね、
情報ありがとうございます!
さ・・最強の少年院!!なんかすごいですね。
昭和の香りがします。
飛行場や戦闘機の格納庫なんていまの平和な千葉ニュータウンでは信じられませんが実在したそうですね。
機会があれば調べてみたいです。
これはかなり有名で今でも牧の原には空襲に備えてつくられた
えんたい壕があるそうです。
大事に保存したいですね。
飛行学校の校舎は今メガマックスがある
後ろの方の野原あたりだったと思います。
印旛陸軍飛行場はこのサイト→http://www.shimousa.net/hikoujyo/imba.html
に詳しく載っていますよ~ 今でも東の原に掩蔽壕は残っています。保存運動も行われているようです。
追記です
この「印旛地方航空機乗員養成所」が後の印旛少年院として利用されたようです。歴史を感じますね。